高校卒業後、釜石を離れ18年間東京で生活をしていた下村さん。
一度、釜石を出て、外から釜石をみつめなおしたことで、釜石の魅力に気づくことが出来たと言う。
≪にぎわいを釜石につくる≫
下村さんは、うみぐらし大使館SUNRINGの代表とフェリアス釜石事務局長という二足の草鞋を履いている。
フェリアス釜石が運営する情報交流センターでは、建物の管理や、釜石の魅力を発信するための広報活動。
うみぐらし大使館SUNRINGでは唐丹町での漁業体験をはじめとしたブルーツーリズムや、被災地を視察に来る人の受け入れなどをしている。
“まちなか”と“漁村”
場所は違えども、下村さんが共通して目指すのは“にぎわいの創造”だ。
当たり前の生活の中に眠っている釜石の価値を掘り起こし、人がやってくるような“にぎわい”を作り出すことを目指して活動している。
≪釜石に戻ってきた≫
高校卒業後、東京で暮らし始めた。釜石に戻るつもりはなかった。
東京で暮らし始め18年が経とうとしていたころ、不調を繰り返していた持病の悪化で、1年間休職することになった。
1年間の療養生活を終えて、やっと復職して間もないときに、東日本大震災が起こった。
テレビを通して変わってしまった故郷をみたとき、今いる仕事を辞めて故郷へ帰ろうという思いが大きくなった。
身体が本調子ではなく、手術も控えていたためすぐには帰ることが出来なかった。
歯がゆい思いを胸に抱き続け、やっと釜石に帰れたのが2013年だった。
自分が東京で学んだ経験を活かしていきたいとして、釜石にUターン後、釜石のまちづくりの第一線を走っている。
≪“すげえとこ”が釜石には沢山ある≫
釜石を1回離れたからこそ、釜石の魅力や価値に気づくことが出来た。
釜石のことを田舎で何もないところだと思っていたけれど、海、山、川などの自然の豊かさ、美味しい食べ物や地酒、釜石の人そのものにも魅力がいっぱいだ。
しかし、地元の方々の多くはその魅力にあまり気づいていない。
それを気づかせてあげるのが自分の役目だと下村さんは言う。
釜石のポテンシャルを掘り起こし、その価値を磨いていくことにやりがいを感じている。
≪下村さんにとってふるさととは≫
“自分自身を育んでくれた場所”
ふるさとって言葉では上手く表せなくて、どこかぼやっとしていてつかみどころがないけれど、自分自身の考え方が育まれ、自分という人間そのものが育てられた場所だと下村さんは語った。