≪自分の原点は“人”≫
小学校時代は地元の少年野球チーム、
高校卒業後は青年団、消防団に加入し、常に地域と関わり続けている慶太さん。
これらの活動を続けてこれたのは“人のおかげ”と慶太さんは話す。
「自分は不器用だから向いていないのではないか」と躊躇した部分もあったが、
友人や先輩がいたからこそ、様々な活動に参加し、続けることができている。
「自分がここまでやれたのは、自分を受け入れてくれた“人”がいたからだ。」
と慶太さんは話した。
≪人生の転換期≫
自分の人生が大きく変わったのは“東日本大震災”。
慶太さんには、もともとがんを患ってたおかあさんがいた。
震災による大きなストレスがおかあさんの健康をむしばみ、がんの進行を悪化させた。
そして震災の翌年の2012年 慶太さんのおかあさんは亡くなった。
その時、「自分って一人なんだな」ということを実感。何事にも手がつかなかった時期もあった。
そんな時、職場の同僚から誘われた「東北まちづくりオフサイトミーティング」。
そこで様々な“人”と出会い、自分の気持ちを話すことができて、苦しかった気持ちが楽になった。
自分は一人になってしまったけれど、みんながいるから生きていける。そう思えた。
≪“釜石の20代”で何かできねぇか≫
震災後、釜石の“まちづくり”をどうしていくかについて常に考えていた慶太さん。
これからの釜石のまちづくりを引っ張ってくれている先輩方や、震災後、
釜石のために動き出した高校生たちの姿を見たとき、
本当は引っ張っていかなきゃいけない20代が動き出せていないことに気がづいた。
20代のみんなが釜石を盛り上げるような取り組みは個人それぞれがしていることを知っていた慶太さん。
だからこそみんなが集まったら面白いことができるのではないかと考えた。
20代で刺激を与えあったり、考えを共有したり、つながれる場を作るために
「釜石の20代でつながろうぜ!の会」を立ち上げた。最初のメンバーはたった9人。
しかし、活動がメディアで取り上げられると口コミでメンバーが増え、今では30人以上!
“釜石に関わるすべての20代”
で新しい風を起こそうと常に慶太さんは動き続けている。
≪慶太さんにとってのふるさととは≫
“『自分』という人間を表現できる舞台(ステージ)”
釜石には素直に『自分』を表現でき、どんな『自分』も受け入れてくれる仲間がいる。
一人ひとりが『自分』という人間を持ち、
輝くことができる舞台がある釜石こそ慶太さんにとってのふるさと。